高野山奥の院
高野山奥の院
2008年1月7日、友人の青木さんと私と私の愛犬凛太郎の2人と1匹で高野山奥の院に向かった。雑誌で見た奥の院の樹齢何百年もの大木に惹かれた奥の院行き。友人の青木さんも木好きである。
当日は生憎の小雨だった。そして高野山に入ると道の両脇に雪が残っていた。知らずに行ったのだが、道に積雪がなく運が良かったようだ。高野山は冬は雪深いと帰ってきてから聞いた。
地図も忘れて行ったものだから、途中で道に迷うわ、高野山に辿り着いても奥の院にどこから入ったらよいのかわからず、道路の案内板を頼りに進みながら、もう高野山を出てしまいそうなところの駐車場に車を止めた。
結果的に、一番歩く距離が短くてすむ駐車場だった。雨だったのでそれで良かったのかもしれない。小雨の中を歩き始めたら、いきなり笑えるお墓の数々に遭遇。お墓を前に笑うというのはひんしゅくものかもしれないが、足袋の福助人形、UCCコーヒーの巨大コーヒーカップ、はてはロケット風のモニュメントなど、慰霊碑という説明もあるのだが顔がほころび、声を出して笑ってしまった。石のお名刺入れを備えたお墓もあった。奥の院はお墓のメッカだ。
けれども、大きな樹を目的に来た二人は巨大なお墓に目を奪われ、目的の大木に会えず、なんだかがっかりブーイング。文句を垂れたその瞬間、眼前の巨木に気がついた。
圧倒されるような大きな樹だった。青木さんは早速写真を撮った。その木がどれほど大きいかわかるようにレンズの中に収まれと指令が飛んだ。
写真の私の派手な色合いは何とも言いようがない。カッパの黄、傘の赤、帽子はオレンジと、ものすごく目立つ色合いで少し恥ずかしい。雨だったのでしょうがないと思っていただきたい。上の写真で、お腹が膨れているのは愛犬凛太郎が納まっているからである。ちなみに凛太郎の犬種はミニチュア・ダックス。
人間と巨木の対比でこの木がどれほど大きいかわかっていただけるだろうか。樹齢は400〜500年くらいだろう。
この巨木との出逢いに気をよくした私たちは生憎の雨も何のその、二人はそれぞれのペースで散策を始めた。
お墓が先か樹が先か。巨木の傍に寄り添うように墓石がある。小雨が煙り、少し靄が立ち込めた奥の院はなんだか別世界だ。見上げる先がものすごく遠い巨木の数々。気がつけば、まるで景色を吸い込むような深呼吸をしていた。
青木さんが靄立ち込める風景を撮影してくれていたが、黄色の私はいない方が、、、^^;
歴史に興味のある人はお墓めぐりも楽しいかもしれないけれど、歴史にはトンと興味のない私は、もっぱら樹を見上げ、うっとりとし、まるで今ここにいるはずなのに、ここではないところを浮遊しているような、そんな気分で樹を見上げては少し歩き、また見上げては深呼吸、そんな風でした。
さて、そうこうしているうちに弘法大師御廟前に着き、犬を連れたままでは入れないだろうなと見上げていたら、ご奉仕の方が「ここは犬を連れて入っても大丈夫ですよ。弘法大使様が、犬に導かれてこの地に来られたというお話がありますから」と教えてくださった。そこで、凛太郎をお腹に入れたまま、無事にお参りもさせていただくことができた。
さて、私が高野山に来た目的は実はもうひとつあった。お性根入りの腕輪数珠が欲しかったのだ。奥の院でお坊様に売っていないかとお尋ねしたら、「売ってはいないのですが、ご志納金をお納めいただきましたらお渡しさせていただいております」とのこと。それにはお性根は入っているのですかと確認までした。今、考えると少し恥ずかしい質問だったかもしれない。
早速、お納めする場所を尋ねたら、先程、犬連れで入ってもいいとおっしゃってくださった方のところだった。
高野山では平成27年に開創1200年記念事業をするため、ひろく浄財を呼びかけておられるそうだ。
いただいて、すぐに封を開け、香りを嗅ぐと良い樹の香り。奥の院の霊木、スギノキで作ってあると書いてあった。
私がお参りを済ませたころに青木さんが御廟前に到着。写真もたくさん撮ったようで、後で見せてもらったらよい顔をされたお地蔵様が数枚。私はお地蔵様の顔をよく見もせず、ひたすら樹ばかり見ていたので、今度もし来ることがあったら、真似をしてお地蔵様の写真を撮ろうと思った。
真に良いお顔のお地蔵様だ
帰りに、せっかくここまで来たのだからと総本山の金剛峯寺だけは訪ねた(ここは、愛犬は車で留守番)。襖絵の数々を拝見し(犬が弘法大使様を導く姿を描いたものもあった)、大広間で茶菓をいただいた。
そうそう、奥の院では、大木に黄色の姿で抱きつき、耳を押し当てたが、何も聞こえなかった。残念。
さて、翌日から肌守りの腕輪数珠を毎日していたが、ある日、どこかで落としてしまい、ずいぶん探したが出てこず、ものすごく落胆していた。行った先々を思い出し、落としそうな場所を再訪し、行った先々に電話もかけてみたが見つからなかった。
しかし!見つかった。拾ってくださった方がおられたのだ。なんだかとてもありがたく、縁あって戻ってきたのだと思えた。